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近代文学、SF小説、ジャズ、そしてゴスペル

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『八甲田山死の彷徨』日本近代化の暗い影

『八甲田山死の彷徨』(1)

○「現代の漱石・鴎外」

 新田は司馬遼太郎と並んで、戦後の夏目漱石・森鴎外のような存在に例えられることがある。
 それは、2者が戦後の文壇を牽引する立場にあっただけでなく、文学を通して「日本とは何か」という日本の近代アイデンティティに一つの解答を示し得ていたからである。
 明治期、漱石や鴎外は欧米文明をどのようにアレンジ吸収しつつ、日本独自のアイデンティティを残すかという問題に取り組んだ。その過程で、彼らの文学作品群が生み出されていった。このように捉えることができる。
 例えば漱石の意識を知る上で、このような講演が残されている。
「……西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の開化は外発的である。ここに内発的というのは内から自然に出てきて発展すると言う意味でちょうど花が咲くようにおのずからつぼみが破れて花弁が外に向かうのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。……(日本の文化は)鎖港排外の空気で二百年も麻痺したあげく突然の西洋文化の刺激に跳ね上がったくらい強烈な影響は有史以来まだ受けていなかったというのが適当でしょう。日本の開化はあの時から急激に曲折し始めたのです。……これを一言にしていえば、現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。……ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申したとおり私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱にかからない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。」(講談社学術文庫『わたしの個人主義』「現代日本の開化」より)
 司馬は、敗戦というアイデンティティの危機に直面した戦後日本にあって、独自の司馬史観を展開。やがて『街道を行く』シリーズでさらに日本という国のかたちを追い求めていった。一方新田は、『富士山頂』など戦前戦後の科学技術発展、そして山岳信仰などに目を向け、日本の精神伝統を追い求めていった。どちらも、漱石の指摘した「宿題」に取り組んでいた。
 かなり強引な枠でくくると、民間業の新聞畑による大衆文学というくくりで司馬は漱石の後輩(司馬はもと産経新聞記者、漱石は後年朝日新聞記者となった)、官職の専門職畑というくくりで新田は鴎外の後輩(新田は気象庁職員、鴎外は陸軍軍医だった)に当たる。

○司馬と新田の個性

 さて『八甲田山死の彷徨』は、映画「八甲田山」の原作にもなった、代表作の一つである。一方、司馬遼太郎の考えを最も示す代表作は日露戦争を描いた『坂の上の雲』とされるが、これに対比するものとして位置づけられる新田次郎の作品を探すと、本書『八甲田山~』が最も適しているのではないか。
 司馬は『坂の上~』で、まさに坂の上の雲を追いかけるような、楽天的な希望に満ちた近代日本人の姿を描いた。終戦後は、とくに近代日本の維新以降の歴史をネガティブに、自嘲的に捉える風潮があった。この中で司馬は、明治維新が掲げた近代合理精神、その理想主義の健全さを、ともすれば礼賛と言えるほどのポジティブさで再評価し、現代の日本人を勇気づけた。ゆえに彼の作風は歴史修正主義と批判されることもあるが、また根強い支持も受けている。
 新田は、本作品『八甲田山~』で、約二百人の大隊が八甲田山中における軍事訓練中に壊滅するという、未曾有の遭難事件を日露戦争の一部として描き、司馬史観にはない、暗い側面に焦点を当てている。
 新田自身の国家観は、実子である藤原正彦の『国家の品格』に示されているとおり、民主主義よりも武士道精神、論理よりも情緒を説くものである。明治維新の理想を大きく評価する司馬とは少々スタンスが違う。が、過去の日本を再評価する姿勢自体は、大枠では司馬と同じポジティブなものといえる。ただし例えば戦争に対する捉え方は、司馬史観と違うものが感じられる。
 新田も、大枠では近代合理精神を評価しており、基本姿勢は司馬と似通っている。しかし新田はそこまで礼賛に向かうことはなく、ともすれば湿った筆致に流れがちである。
 理由の一つには、近代合理主義というより、もっと根底的な人間性(良い部分と悪い部分の両方)への深い洞察を試みていること。また人間社会よりも上位に、山に象徴される自然界の圧倒的な力を置いていることがある。これらは後年、新田が伝統的な宗教精神に向かうようになったことと軌を一にする。
 また本書は、組織論としても見るべきものがある。『八甲田山~』を読んだ後の者に、この悲惨な遭難事故が天災だったか、人災だったかを聞けば、9割の者は「人災だ」と答えるだろう。本書では、保守的発想、プライド、リーダーの判断力欠如、そして集団心理などが結合した結果、恐ろしい悲劇が生まれる、その典型例が描かれている。本書を敷延させていくと、こうした組織上の欠陥が、やがて日本の敗戦につながったということであろうか。
 個人的には正直、本書のような暗さは好きにはなれない。本書は、司馬のように読後感として勇気を与えられるものではない。しかし、反省と智恵を与えられる。そのような一冊である。(英)

『八甲田山死の彷徨』(2)
○短編と長編の違い
 『八甲田山死の彷徨』は本一冊の長編であるが、新田はこれ以前、昭和三〇年に短編『八甲田山』を著している(発表時『吹雪の幻影』、初期短編集『強力伝・孤島』などに所収)。しかしこれは、遭難時の様子を描写し、百九十九名の遭難の報を簡単に記して終わるものであった。以来、新田はずっと八甲田山の遭難事件を一冊の本に書きたいと志を抱き続けていたと思われるが、昭和四六年ようやく長編書き下ろしとして本編を発表した。長編は短編と比較して、自然描写や遭難時の詳しい状況が格段にリアルに伝わってくる。それだけでなく、新田は、その雪中行軍が行われるに至った経緯、総難事件に発展した原因などに踏み込んでいる。なぜ長編として書き直さなければならなかったのかが伺い知れる。新田は短編でこの事件を扱った後、「なぜこのような惨事が起こったのか」「詳しい原因は何か」など、いくつかの疑問をずっとあたため続けていたと思われる。
 その頃、八甲田山遭難事件は謎に包まれたまま、時代とともに忘れ去られつつあった。が、昭和四五年になって、八甲田山での遭難事件の最後の生き証人である小原忠三郎伍長が亡くなるという出来事がある。これを受けて、独自に取材を続けていた、地元新聞記者の小笠原弧酒(おがさわらこしゅ)氏が『吹雪の惨劇 第一部』を発行。新田次郎も小笠原氏に連絡を取り、その協力を受けて詳しい資料を入手、現地取材を行った上で本書を書き起こした。これがブームを呼び、昭和五二年には映画化。その後テレビドラマ化もなされ、事件の顛末がつまびらかにされ、一気に事件の知名度とともに「人災」であったという評価が広まった。

○調査委員会の結論
 新田が事件をどのようにとらえていたのか、それは本書「終章」で端的に示されている。
 終章でまず新田は、陸軍省が遭難事件の直後に組織した調査委員会について述べている。委員会は調査結果を公式発表しなかったが、特に三つの点を陸軍大臣に具申したという。
 第一点は、雪中行軍隊の装備を改良しなければ「緊急事態」に際して重大な問題になるということ。
 第二点は、遭難者遺族や生存者に充分な慰労措置をとらなければ「一旦緩急ある場合」の士気にかかわるということ。
 第三点は、「非常時」を目前にした今、責任を追及しすぎずに兵力を温存すべきであること。
 これら全ての表現が、日露戦争を指していることは明らかであった、と新田は指摘する。

○階級ごとの生存者比率
 次に生存者比率であるが、八甲田山で雪中行軍を行った二一〇名の階級別隊員数の内訳と生存者数を比較すると、
 准士官以上の隊員数一六名中、三名が生存で、生存割合は五人に一人。
 下士官の隊員数三八名中、三名が生存で、同割合は一三人に一人。
 兵卒の隊員数一五六名中、五名が生存で、同割合は三一人に一人。
 全体では二一〇名中、一一名生存で、同割合は一九人に一人。
 行軍中は常に階級が上の者を隊列の中において守るよう行動した結果であり、新田はここにも不公平が見られるとしている。
 ただし、生存した将校は日露戦争で次々と死傷し、兵卒の方が郷里で療養しながら生きながらえるという状況であった。

○「人災」なのか
 ちなみに新田の夫人である藤原てい氏は、エッセイの中で、新田次郎の『八甲田山~』執筆当時の様子を紹介している。執筆中、新田は家族には目もくれず資料を読みふけり、いきなり書斎から出てくると、「オイ!八甲田山の兵卒は、死んだ後、墓ですら階級で区別されているんだぞ!」と怒鳴ってきたという。そこには、遭難、死者の弔いなどにあっては、厳粛に魂を扱うべきである、人を人らしく公正に扱うべきである、という新田の義憤があったことと思う。
 物語最後、新田はこのように結んでいる。
 「とまれ、この遭難事件は日露戦争を前提として考えねば解決しがたいものであった。装備不良、指揮系統の混乱、未曾有の悪天候などの原因は必ずしも真相を衝くものではなく、やはり、日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。……この事件の関係者は一人として責任を問われる者もなく、転任させられる者もなかった。すべては、そのままの体制で日露戦争へと進軍していったのである。」
 新田は、この遭難事件を契機に日本軍は雪中装備を全面的に改良することとなった、これがなければ日露戦争での勝利もなかったかもしれない、という観点を何人かの登場人物に述べさせている。
 先ほどの義憤をあわせて考えると、新田としては、八甲田山の事件は、何か責任者の判断ミスという次元のミニマムな人災ではなく、国家間の戦争という巨大な意志が、人間を歯車のように扱った結果生じた、マクロな人災(正確には人災と呼び難いが)だった、と言いたかったのだと思われる。(英)


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